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熱血教師とサラリーマン教師

テレビドラマでは刑事と医者と教師は熱血でなければ面白くない。だからテレビに出てくる主人公は必ず熱血漢でそれが理想で有るかのような風潮がある。私自身は医者であり教師の端くれでもあるので、このようなテレビ番組や討論会があるともの凄く反論したい衝動に駆られる。このような思いは、きっと全国の医者や教師がしているに違いない。それではどのような教師が良いのか?私が大変感謝している恩師2人を例にして考えてみた。

 

一人は中学2-3年生時の担任で典型的な熱血教師のS先生であり、もう一人は高校3年時の担任のY先生である。Y先生は生徒に関心を示さず、定刻に帰宅すると言う評判から「サラリ−マンY」と生徒から呼ばれていた。

 

S先生は秋田県の出身で体育の教師として埼玉県上福岡市の中学校に赴任してきた。スキージャンプ競技の選手であり、競技を続けていたので国体なのどの関係で埼玉県に採用になったのかもしれない。バリバリの秋田弁だったので生徒からはよくからかわれていたが、国体選手で、しかも花のジャンプ競技の選手だったので生徒からは一目も二目も置かれていた。大変熱心な先生で怒ると怖い先生であったが、生徒からは大変人気があった。私は中学2年から2年間お世話になったが、何と言っても思い出深いのは高校受験である。

私は埼玉県立川越高校の志望であった。私の兄も通ったこの高校は、最近では映画「ウォーターボーイズ」の舞台として有名になり、軟派なイメージに成ってしまったが、旧制中学時代からの2本線の入った学帽は近隣の中学生の憧れであった。埼玉県は受験競争も激しく、県立高校でも倍率が高いので、落ちれば東京の私立高校へ通わなければなくなる。浪人の許されない高校受験は大学受験よりシビアである。川越高校受験を許されるのはクラスでトップの成績の者1名とされていた。いつも成績は3-4番程度の私は合格圏外であったが私の強い希望を酌んで、先生は受験を許可してくれた。そればかりか、大反対の親までも説得してくれたのである。「小暮は根性があるからこれから頑張れば大丈夫ですよ」S先生にとっても、初めての受験生の受け持ちなのに、よくぞ言ってくれたものだ。他のクラスでは私よりも遙かに成績の良かった者でさえ、受験が許可されず志望校を変更させられて、腐っている生徒も居た。

なぜ、ここまで私を信頼してくれたかは分からないが、期待に応えるべく私は猛勉強した。6クラスから8人が川越高校を受験し4人が合格した。我がクラスからは私を含めて2名が合格し、その他の多くの者が志望校に合格して皆ハッピーで有った。しかし、他のクラスでは志望校を落とした上に、受験にも失敗した者も居て気の毒であった。仮に私が落ちていたとしても本望であったに違いない。この時、チャレンジする勇気や達成感を覚えた。それは、その後の私の人生に大きな影響を与えたに違いない。

高校に入ってからの私は受験で燃え尽きたわけではないが、あっと言う間に落ちこぼれた。
元々、家で勉強する習慣の無かった私は、進学校の授業に、付いてけるはずがなかった。中学校では授業さえ聞いていれば何とかなったが、高校ではどうにも成らなかった。塾にも通ったことがなかったので、勉強の仕方さえ分からない状態で、もがいていた。解らないことが雪だるまのように膨らんで、一度はまった落ち零れの状態からは容易には抜け出せなかった。つらい3年間であった。

クラブ活動だけが救いであった。当時はバンカラな校風で有ったので倶楽部活動に打ち込んでいる振りをしていれば落ち零れも生きてゆけた。入学前は県内で70まで上がった偏差値も入学後、校内で34まで落ちてしまい、教師の視線が軽蔑の眼差しに感じられた。中には、励ましてくれる優しい先生も居たが、哀れみの眼差しも辛いものである。中学では味わう事の無かった事ばかりである。この時、初めて虐げられた者の気持ちが分かるようになった。

高校3年になり、いよいよ大学受験という時にY先生が担任になった。Y先生は生徒に干渉しなかった。全く生徒に関心を示さないかの様な態度で定刻に帰るその姿から「サラリーマン」と揶揄されてあまり人気のない先生であった。私もY先生の良さが解ってきたのは卒業して10年も経ってからである。Y先生は成績の悪い者を叱ったり励ましたりしないだけでなく、優秀な者を誉めることもあまりしなかった。

今にして思えば平等に全ての生徒に接していた。落ち零れの生徒という者は教師と接するとき、常に教師が自分をどう思っているかと恐怖心や嫌悪感を持って接し、何らかの感情を察してしまうものである。しかし、Y先生は生徒に干渉せずあたかも関心がないようにクールに接するので劣等生の私も「なにも自分に特別な感情を持っていない」と安心して接することが出来た。これには、当時の私は救われた。

今にして思えばY先生には多くのポリシーが有ったようだ。当時は英語教師でもnative speakerと人前でしゃべるのをはばかる時代で有ったが、Y先生は数学教師なのに教室に友人のアメリカ人を連れてきて授業をしたり、色々なことを自分でやって示してくれた。Y先生はある意味かっこよかったのかもしれない。私はY先生の外国旅行の話が好きだった。この頃から、私も海外に憧れるようになったのかもしれない。

私が医師を志望し始めたのは小学校6年の時からであったが、高校時代には誰にも言えずにいた。同級生の誰一人として知らない秘密であった。進路指導の時は、とても医学部志望といえる状況でなかったがY先生は「どうせこれから勉強するんでしょ」と否定することもなければ笑うこともなく、さらりと励ましてくれた。熱心に指導をして、志望校を決めて合格率を誇る先生も居たが、Y先生はそのような事はしなかった。「どんなに成績の悪い生徒でも川越高校に入れたのだから、また勉強し始めれば出来るから、僕は心配していない。」「一人の人間として、自分の進路は自分で決めるべきである。」と皆に言っていた。

夢を諦めることなく、再度チャレンジを始めた私は幸い、1年浪人しただけで国立大学の医学部に合格した。いくら進学校とはいえ医学部に合格するのは数人なので、在学中の成績からすると異例中の異例であった。挑戦というのはしてみなければ結果は分からないものである。

大学に入り故郷を離れてからは年賀状だけの付き合いになる人がほとんどであった。また次の1年も合う予定のない人に「今年も宜しく」もないであろうと、私はいつも近況報告をすることにしている。特に写真は多くを語ってくれるので、その年のmain event写真付き年賀状が我が家の定番である。そうなってきたというのもY先生が毎年、色々と感想を書いてくれるからかもしれない。毎年国際学会で発表し家族を連れて旅行しY先生に報告するのが楽しみになっていた。そうしたやりとりの中からY先生の考えが卒後十数年して分かったような気がする。本当に生徒に関心が無い「サラリーマン」で有ればこんなに丁寧な返事をくれるはずはない。全てはY先生のポリシーから来たスタイルであったに違いない。

この2人の全く正反対の先生はなぜか私にとって最も良かった先生となった。これからすると熱血漢かどうかは関係なさそうである。この2人の共通点を探せば教師の有るべき姿が分かるかもしれない。そこで共通点を抜き出してみた。

  1. 生徒の意志や夢を尊重した。
  2. 生徒にチャレンジさせた。
  3. 教師自らチャレンジしてきたものを生徒に示せた。

これ以外にもありそうだが、主なものはこれくらいであろうか?
これらを言い換えると、自ら示して生徒に夢を抱かせ、その夢を摘まず、生徒を信じて自らチャレンジするのを待てる(やる気にさせられる)のが理想の教師といえる。それではこれの正反対を考えると、自らはなにも示せず、生徒を叱り罵り、夢を摘んで教師の意向に従わせる教師となる。

一生懸命やって生徒の尻をたたいて指導すれば熱血教師になれるかもしれないが、ともすると後者の教師になりかねない。果たして自分はどちらであろう?教師として先輩医師として親として・・・

講義も一生懸命やっても空回りすることもある。今年、教師として自分に危ういものを感じた私は取りあえず学生を質問責めにする事と、寝ている学生を直接起こすのを止めた。だが諦めてはいない。学生が興味を持って講義を聴き、たとえ一人でもそこから夢を抱けるような講義をしたいと思っている。一人前の教師になるのは大変なことである。正直なところ教師でなくて医者で良かったと思っている。