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相対性幸福論2

山梨医大眼科同門会誌第9巻(2007.3.22)
小暮 諭

お礼

ある日、e-メイルを開いていると遠方の見知らぬ先生からメイルが届いていた。
読んでみると驚いたことに本誌に掲載した「相対性幸福論」に感動して、大変参考になったという礼状であった。本誌は会員以外にも県内の医院・関連病院・全国の大学病院に謹呈されている。医局に有った本誌を読んだ先生が、私の名前から検索して、アドレスを探し出してまでして、感想を送ってくれたのだ。

ある病院の院長先生は自分の考えもまとまったとして、病院の朝礼でこの随筆を引用したそうである。また、ある若い医局員も「嫌な事があった日に、この論文を何回も読み返しました」と言ってくれた。
多くの方から「面白い」と御好評を頂いたが、意外だったのは医局員の中には「これは医局員の不満を解消するために教授から書くように頼まれたに違いない」「これは〇〇先生に読ませるために書いたに違いない(自分は関係ない)」というような穿った見方をする者が出ていることである。
実は、今回のような随筆を掲載する第一の目的は、本誌への随筆投稿を増やすことである。私が塚原名誉教授の随筆集を編集するうち、自分でも書いてみたくなったのである。この文を読んで自分でも書きたくなる会員が1人でも増えればいいと思っていたので、ただ面白おかしく読んで貰えればそれで良かった。

しかしながら、苦労して編集した雑誌も、皆が読んでくれる保障はまったく無い。知っている人の文章であれば読んでみようという気になるが、読み始めて面白くないと、そこで直ぐに捨てられてしまう。それどころか眼科の2つある病棟の一つでさえ「そんなもの邪魔になるから要らない」と配布さえ拒まれてしまうのだ。(真顔で)

そんな立場にある事は重々承知しているので、相対性幸福論も短くまとめた。一度読んだだけでは狐に抓まれたようで、中には納得できない人が出るのも仕方ない。実は、短い実例の中に多くの空間的・時間的な相対性のトリックが編込んであったのだ。詳しくは前号をご参照いただきたい。今回は前回触れることが出来なかった問題について、紙面の許す範囲で補足しよう。

絶対的不幸

相対性幸福論の骨格となる考えは「幸福は常に何かと比較して感じており、身近なものと比べて、一喜一憂すべからず、自分自身の尺度を持て」である。そしてこの理論を実践し、幸福を実感することは、苦境を克服するための「心の護身術」であるといえる。

前回、環境は変わらないのに比較基準が変わったため、幸福を感じたり不幸に感じた人の実例を提示した。比較基準を遠くに置くことにより、身近な環境変化に惑わされること無く、不幸から逃れる術を示した。しかし、この理論の根底にある「比べている」と言う前提が正しいのかという疑問を持つ人もいる。比べることなく幸せを感じたり、絶対的に不幸を感じることが有るのではないかという疑問である。

例えば、釣りで魚がつれる=嬉しい=幸福感、家族の死=悲しい=不幸。
これらは比較しているのであろうか?実は、これらも比較しているのである。それを説明する前に人間の思考について説明しなければならない。

直感的思考と論理的思考

これは「ドラゴン桜」というテレビドラマの一こまである。
小学校低学年と高学年の兄弟の目の前で牛乳を全く同じ2つのコップに均等に分ける。その後、兄弟の目の前で片方のコップのみ細長い背の高いコップに牛乳を移し変える。二つの形の異なるコップを並べてどちらが多いかと尋ねる。弟は背の高いほうのコップだと答え、兄は同じだと答える。弟は見た目だけで直感的に答えたが兄はもともと同じ量の牛乳なのでコップを移し変えただけで量は同じと論理的に判断した。

これは誰でも10才位から物事を論理的に考えられるようになり、それ以前の子供は直感的に考えた結果である。即ち、正常な発達過程での差であり、その発達の個人差で個々の能力を判断してはいけないと言うシーンである。

確かに成長と共に論理的に考えられるようになるが、全て置き換わるわけではない。
私の考えではこの2つの思考は車の前輪と後輪のようなものである。直感的思考はより本能的で強く感情や行動に影響する。謂わばエンジンの力を発揮する後輪である。そして、論理的思考は考えを確実に妥当な方向に導く舵取りをする前輪にあたる。全ての人が両方の思考回路を持ち、性格や環境により、その働く比率が刻々と変わっているのだ。

実は、我々は多くの事を直感的な推測で補っている。(例:顔を見ただけで優しそうな人だと判断する。等)また、人の力を超えた理解不能な事に、直感的に神の力を感じたりするように、宗教は根本的に直感的思考からスタートしていると言える。

僧侶は何故煌びやかな衣装を身にまとうのか?

直感的思考が論理的思考により、容易に修正可能であればそれでよいが、近親者の死など、とても論理的に考えられない時、人はどう対処するのであろうか?時間がたって思考回路が回復するまでの間は、直感的に感じる不幸には直感的に補わなければならない。

例えば、お葬式の席でお経を唱える僧侶がネクタイにスーツ姿で正装していたとしよう。
正装しているので、無礼ではない。しかし、参列者からは不安の声が出るに違いない。「本当に成仏できるのか?」やはり、見た事もないような煌びやかな衣装に、理解不能なお経を唱えてこそ、直感的に「凄い、きっと成仏できるに違いない」と残された家族は救われるのである。直感的に「そうに違いない」と思える事は心の奥底まで届くだけの力を持っているのである。

直感的思考の制御

直感的思考は本「相対性幸福論」において厄介者のように書いてきたが、これを無くすことは不可能であり、如何に利用するかが課題である。

実は直感的な判断は、自分でそう思い込めば、理由は要らないので色々なものが比較可能で、相対性幸福論を大きく発展させる事が出来る。以下に事例を示そう。

事例3

私は自分の大学受験でも、あまり本気で神頼みをしたことはなかったのだが、一度だけ本気で神頼みをした事がある。これも私が英国留学中のことである。

留学先の病院では1日に100例以上の眼科手術をし、年間2万件の眼科手術をする。先天性緑内障の検査・手術だけで毎週10例以上の全身麻酔がなされる。何人かのDrに手術を見せてもらっていた私は、毎週多くの乳児の緑内障手術を見る機会に恵まれた。毎週、乳児の眼を見るうちに、ある疑念が沸いて来たのである。私の長男(10ヶ月)の角膜が大きい。角膜(黒目)が大きいと言う事は、素人目に見ればクリッとした目で、可愛いと喜んでいられるのだが、眼科医(特に緑内障専門医)からすると嫌な兆候である。それは先天性緑内障の可能性を示しているのだ。

乳児の目は柔らかいので、眼圧が高いと目が大きくなり、角膜も大きくなる。物差しで計ったり、写真にとって判定したが、やはり大きい。乳児の緑内障と言うのは放置すれば失明するので、手術治療を要する。上手くいけば治って、一生普通に過ごせる可能性もあるが、上手くいかなければ何度も手術を繰り返した後、若くして大きなハンディキャップを背負う事になる。緑内障の中でも最も難しく、最も責任の重い手術である。疑いが掛かった場合、麻酔をかけて眠らせた上で眼圧を測定したりして、最終的な診断がつく。帰国の時期が迫っていた私は、不安を胸に仕舞い込み、帰国後日本で検査する事とした。

帰国後も、家族に心配をかけぬよう、計画は秘密裡に進められた。私は、自宅で誰にも気付かれないように検査する事にした。家族が寝静まる夜中、息子は私が盛った睡眠薬で深い眠りについていた。いよいよ検査をする直前に、私は神頼みをしたのである。「どうか緑内障で有りません様に」そして真剣に祈れば祈る程、ただ祈るだけでは虫が良すぎる。何か生贄の様な犠牲を払わなければ、祈りは通じないのではないかと直感的に感じるのである。

そこで、誰もがするように「AになってくれればBは要りません」と取引をするように祈り続けたのである。「もし、息子が緑内障でなければ、私は自分に不幸が降りかかっても良い。出世しなくとも良い、60才で早死にしても良い」、、、祈りは続き「研究成果が出なくとも良い、科研費も当たらなくとも良い」、、、あらゆる思いが駆け巡る。
この神に祈る姿は、医師として素人目には情けない医者に映るかもしれない。しかし、白内障や麦粒腫等の病気ならここまで悩む事はない。それ程、先天性緑内障は深刻な病気なのである。

検査後、全く異常が無かったことが判明し、唯の取り越し苦労であった事が判明した。傍から見れば、ただの笑い話であるが、真剣に祈った後では、祈ったおかげで救われたとしか思えないものである。全て直感的思考のなせる業である。
数年後、私の身に多少の不幸が有っても、科研費(研究費の公募)が外れても「あの時、神様と約束したから、仕方が無いか、、、」と、以前の不幸と比べて諦める事も出来る。これは即ち、過去の不幸と比べて、現在の不幸に耐えられるようになっているのである。

key point:

  • 直感的思考においては、何でも比較可能で理由や妥当性は要らない。しかも、強い感情にも対処できる可能性を秘めている。
  • 人は辛いめに会った分だけ強くなり、その次の不幸に耐え易くなる。
時間的相対性

直感的思考と論理的思考の違いによる、相対性が理解できたところで、もう一つ重要な相対性の概念がある。それが時間的相対性である。これも理解のために一つの御伽噺を挙げよう。

黄泉(よみ)がえりウサギ伝説

昔、ある一家がペットにウサギを飼っていた。
庭にウサギ小屋を作ると、穴を掘って自由に外に出入りするようになり、庭は穴だらけである。子供の頃から飼い慣らされていたウサギは逃げる事も無く、飼い主にタックルしてくるお茶目なウサギであった。

大変可愛がられていたが7年目の冬に病気に罹り、あっという間に死んでしまった。悲しんだ家族は庭に穴を掘り手厚く葬った。しばらくの間、ペットを飼うことをやめたが、その後2匹目のウサギを飼うことになった。2匹目のウサギは大人しいがとても人懐こく利口なウサギであった。

1匹目の教訓から、放し飼いにはせず、小屋で飼育した。今度は長生きするかと思いきや、やはり7年目に死んだ。家族は悲しみ、庭に葬ろうと穴を掘ると、かつてのウサギの巣穴に突き当たった。そして驚いた事にその穴の中から元気に甦った昔のウサギが出てきたのである。それは紛れも無く前に飼っていたウサギであった。あまりの事に戸惑った家族であったが、「ま、いっか」とそのウサギを飼うことにしたのである。

そしてその後7年毎に入れ替わるウサギと家族は幸せでも無く、不幸せでもなく、何事も無かったかのように暮らしましたとさ。(終わり)

この話には時間的相対性を理解する鍵が入っている。
ペットのウサギが死んで不幸であったはずの家族は、全く同等に可愛がっていた昔のウサギが甦った事により不幸が帳消しになったのである。つまり死ぬと言う事象があったにも拘らず、それ以前とそれ以後を比較してほぼ等価であり、相対的に見て変化が無く、不幸を感じなかったのである。

更に、輪廻転生・不死鳥のように甦る事が分かってからは、なんとも思わなくなっていたのである。つまり、ある時点を境にそれ以前とそれ以後を比べた場合、変わりが無ければ何も感じないし、変わりがあれば幸や不幸を感じるのである。これを時間的相対性と呼ぶ。

時間的相対性の落とし穴

経時的な変化は、直感的に分かりやすく一喜一憂しがちで有るため、本論では論理的に長い過去と比較するなど、無用な変化を自覚しない事を薦めている。しかし、時間的相対性は、短い時間で比較すると、その変化に気付かないと言う落とし穴があり、後から振り返って後悔することがある。

例えば、数年前に撮ったホームビデオを見返したとしよう。そこに映るのは、5才の娘が可愛い仕草で、おどけている姿である。「エー」知っているはずの家族でさえ、愕然とその変化に驚きを隠せない。「ほんの数年でこんなに変わってしまうなんて、、、」これはどこの家庭でもあることである。これは「元のウサギ」にあらず、等価交換の域を超えている。

実は、5才の娘に会えるのは1年間だけであり、その次に来る6才の娘とは別なのである。これは運命であり、短くなる事はあっても長くなる事はない。その次に来る6才の娘が居たからこそ、不幸を自覚しなかったが、長いスパンで振り返ると後悔することもある。
また、次の年の娘が無条件に来ると錯覚してしまうと、無駄に時を過ごして後悔する事となるのである。我々は健康で何事も無く過ごせる事の幸せをもっと自覚しなければならない。

戦場の日本

2003年のイラク戦争開戦以来の米兵死者が3年間で3000人を上回ったニュースが出た。

これは、年間に1000人死んだ事になり大変な数である。日本は確かに平和だが、毎年犯罪による死者はいつも1000人を超え、交通事故による死者6千人、自殺者は3万人である。そして、病気による死者はその何倍にもなる。実は戦場と変わりない。たった200人しか当たらないジャンボ宝くじに、「当たるかもしれない」と我先にと勇んで買いに行く人が、何万人と死ぬ病死や、不慮の死に身内が巻き込まれないと考えるのは、虫が良過ぎると言える。

戦争で家族が死ぬ事の辛さや、悲しさは現在の日本では実感できないかもしれない。しかし、戦争やテロで身内に不幸が出るのも、犯罪に巻き込まれたり、事故にあって不幸が訪れるのも一緒である。そして、日本ではテロが起こらないという保障も無い。1年間無事に生き延びられると言うのはなんと幸せな事であろうか。

今年(2006年)、私の周りから、何人かの人が逝ってしまった。お伽噺の「次のウサギ」が現れない状態である。そして、その悲しみの大きさから、生前にその人が居てくれたお陰で、自分がどれだけ幸福であったかを改めて、自覚させられるのである。

人生では「次のウサギ」は常に少し違うウサギが現れ、最後には突然来なくなるというのが定めだ。それに気付けば、平凡、或は少し辛い生活でさえも、幸せな生活である事が分かってくるかもしれない。 (来年につづく、、、かも?)